■ もしも・・・のちに振り返ってみると、世の中には、「もし、あのとき、ああなっていたならば・・・。」という分岐点がいくつか存在する。それは、サッカーの世界でも同様である。
「もし、ドーハの悲劇がなかったら・・・。」
「もし、アトランタ五輪出場がならなかったならば・・・。」
「もし、中田英寿の成長がアジア最終予選に間に合わなかったならば・・・。」
「もし、岡田武史監督が、カズを外さなかったならば・・・。」
「もし、新監督がトルシエでは無かったならば・・・。」
「もし、あのとき、トルシエが解任されていたならば・・・。」
「もし、あの試合でトルコに勝利していたならば・・・。」
「もし、監督がジーコ以外の人だったならば・・・。」
「もし、ドイツでオーストラリアに勝利していたら・・・。」
「もし、オシム監督が倒れなかったならば・・・。」
もし、ドーハの悲劇がなくて、カズとラモスがアメリカW杯行きのキップを勝ち取っていたならば、サッカーブームは、もっと凄いことになっていたのかもしれない。もし、1997年のワールドカップアジア最終予選で中田英寿がいなかったならば、日本代表はフランス行きのキップを逃していたかもしれない。もし、1998年にトルシエでは無く、他の別の監督が日本にやってきたならば、黄金世代の台頭は無かったかもしれない。
「もし、あのとき、小倉隆史が怪我をしなかったならば・・・。」というのも、その「if」の1つである。
■ 将来の日本代表の中心選手として・・・1996年2月のこと。翌月から始まるアトランタ五輪アジア最終予選を前に、彼は絶好調だった。前年の1995年シーズンは、リーグ戦37試合で14ゴール。アーセン・ベンゲルに率いられた名古屋グランパスエイトは、1stステージ4位、2ndステージ2位と大躍進を遂げた。
その勢いをもって臨んだ元日のサンフレッチェ広島との天皇杯決勝で、彼は先制ゴールを含む2ゴールの大活躍。クラブに史上初めてのJリーグタイトルをもたらした。過去の幻想に悩まされていた彼は、「自分を超えられるような気がする。」と語っていた。
182cmという立派な体格、繊細なボールコントロール、トリッキーなドリブル、正確なパス、そして、強烈なシュート。精神的な弱さを指摘されることもあったが、天性のリーダーシップとムードメーカーとしての資質。まだ、未完性ではあったが、未完成だからこその魅力を備えていた。誰もが、「彼が近い将来、日本代表の中心選手になるのは間違いない。」と感じていた。
■ 代表キャリアの終焉しかし、代表戦士としてのキャリアは、マレーシアの地であっけなく終焉を迎える。皮肉にも、この日が、彼が日の丸を背負ってプレーした最後の日となった。
この日、ヘディングの最中に着地に失敗した彼は、右足後十字靭帯を断裂し、完全に戦線に復帰するまで、2年半という歳月を擁した。アトランタ五輪はもちろん、フランスW杯も棒に振った。日本代表が苦境に陥ると、決まって、「もし、このピッチ上に、小倉がいれば・・・。」と思った。
2003年6月、小倉はJ2のヴァンフォーレ甲府に移籍する。J2通算で75試合で18ゴール。ラストイヤーとなった2005年はわずかに8試合の出場に終わったが、甲府というスモールクラブを初めてのJ1に導いたあと、現役を引退する。
■ 左足にかかった期待確かに、彼は、過大評価された部分はある。もし、あの怪我がなかったとして、その後、どういうキャリアを積んだのか。果たして、再び、海外のリーグで活躍できたか。日本代表の中心として活躍できたのか。ワールドカップでゴールネットを揺らすことが出来たのか。それは、分からない。
未完の大器には、ついに全盛期が訪れなかった。だからこそ、その存在が、美化されているのも間違いない。もし、今、22歳前後で日本代表に選ばれている選手が、当然、キャリアを終えざる得ない状況に陥ったとしたら、その後の評価は、実際に歩むであろうキャリアよりも、上乗せされることは自然である。そのプレーは、人々の頭の中で補正がかかってしまう。
ただ、そうはいっても、やはり、彼の左足に期待をかけたサポーターは多かった。彼は、スペシャルだった。イマジネーション溢れる左足は、常に、何か、大仕事ををやりそうな雰囲気を醸し出していた。近年、日本サッカー界にも数名の優秀な若手フォワードが出現しているが、そのポテンシャルで小倉隆史を確実に上回ると言い切れる選手はいないだろう。
■ もし、小倉隆史が大怪我に見舞われなかったならば・・・プロのサッカー選手として、彼は、期待されたほどの結果を残せなかった。ここで、「もし、小倉隆史が大怪我に見舞われなかったならば・・・」と考えるのは、無意味なことかもしれない。彼も、そういう仮定の話をを好まないだろう。だが、あえて、無意味を承知で、仮定の世界に想いを巡らしたかった。
プロサッカー選手の価値は、「どれだけサポーターに夢と希望を与えるかどうか」であると思う。そういう意味で、彼は、パーフェクトな選手だった。
日本サッカーの重鎮である武藤文雄さんは、かつて、自身のサイトである「
武藤文雄のサッカー講釈」の中で、小倉隆史について、このように語っておられる。武藤文雄さんの言葉がすべてを表しているのかもしれない。
小倉との再会 (2003年11月10日)
(略)
確かに小倉は凄かった。一緒に観戦していた友人は「バッジョみたいだ」と感心していた。なるほど、この日の小倉から漂う独特のオーラは、最近のバッジョを髣髴させた。私はむしろ、左利きである事、射程距離が数十mと長い事から、晩年のハジを思い出したのだが。かほど、小倉の存在感は際立っていた。
しかし、思い出したのが「最近の」バッジョであり「晩年の」ハジだと言う事に、私は無念さを禁じえない。小倉が好いプレイを見せれば見せるほど「ああ、若い頃に大きな怪我に悩まされなければ」との思いがつのったのだ。そして、この逸材が本当の意味でベストフォームを掴む事ができなかった事実を呪う。負傷さえなければ、小倉は「90年代初頭から半ば(つまり全盛期)のバッジョやハジ」をも思い出させるプレイを見せられる素材だったのではないだろうか。
私は日本代表のサポータとして、以前には予想だにしなかった幸福な10年間を過ごしてきた。しかし、この試合を見てより贅沢な想いを持った。小倉が相次ぐ負傷に襲われなければ、もっと多くの幸せを味わう事ができたのではないかと。
http://hsyf610muto.seesaa.net/article/32759749.html
関連リンク『28年目のハーフタイム』(金子達仁・著) 『悲運のエース』
四日市中央工から名古屋グランパスエイトに進んだ小倉は、西野朗監督が攻撃陣のリーダーとして大きな期待を寄せていた選手だった。
’94年まで、サッカーの年齢制限は欧米の新学期にあたる9月1日を境に決められていたため、7月6日生まれの小倉はユース代表にこそ入ることは出来なかったが、高校サッカー界では”レフティ・モンスター”とも呼ばれる文字通りの怪物的な存在だった。
高校3年生の時の全国選手権決勝では、残り時間わずかになったところで値千金の同点ヘッドをたたき込むなど、大舞台になればなるほど力を発揮するタイプの選手でもあり、高校時代から、小倉は日の丸のついたユニフォームに強い憧れを抱いていた。
オランダ留学を経験し、すでにA代表でゴールを決めていた小倉だったが、今まで指をくわえて眺めるしかなかった同世代の戦いに参加できる喜びは大きかった。陽気な性格と強烈なリーダーシップ、そして左足を駆使する変幻自在のプレーで、すぐさまオリンピック代表にとって欠かせない存在となった。
ところが、アジア最終予選の直前、開催地であるマレーシアに入ってからアクシデントが小倉を襲った。練習中、ヘディングで競り合った際の着地に失敗し、右ひざの靱帯を全断してしまうのである。
『やった瞬間ね、これですべて終わったんやって、すぐわかりました。僕、高校時代にも靱帯の怪我はやったことあったんですけど、その時とは痛みもひざの具合も、まるで違いましたから。ひざから下がね、内側にへっこんだっていうか、ただぶらさがっとるだけみたいな感じになって・・・。
あのときって、僕にとって生涯最高に近いコンディションやったんです。ずっと前から身体は作ってきとったし、気持ちの高ぶりも凄かった。自分が自分を越えられるような、そんな予感しとったんです。それが・・・。あかん、これでオリンピックには間に合わへんって思った瞬間、芝殴ってました。殴りながら、神様おるんか、俺、何かしましたかって叫んでました。』
医者の診断は全治6ヶ月、予想通り、小倉の怪我は重傷だった。オランダ留学中、彼のもとにはオランダ・リーグ1部の強豪からもオファーが来ていた。そうした誘いをことごとく断り、あえてレベルの低いJリーグへ戻ってきたのは、すべてオリンピックのためだった。突如として夢を断ち切られた夜、小倉はこらえきれずに涙したという。チームスタッフも、医者も、看護婦も、誰もいなくなってから、真っ暗な部屋で号泣したという。
http://www.fuka.info.waseda.ac.jp/~sado/ogucoment.html
Number”473 7/1 (文・金子達仁) 『忘れられない彼』
「いまね、昔の写真を整理してて、この先使いそうもないカットなんかは捨てちゃってるんだけど、どうしても捨てられないんだよね、あいつのは」
私はカメラマンではないが、もし自分が同じ立場だったとしたら、同じ悩みを抱え込んでいたに違いない。私にとっても、彼は忘れられない選手だった。高校時代に初めて見たときの衝撃は今も鮮烈に残っているし、ちょうど2年前の今頃、6時間にわたってインタビューをさせてもらった時は、つい感極まって涙がこぼれてしまった。私にとっても、特別な存在だったのだ。
「きついようやけど、ダメになっていく選手って、運不運はあるにせよ、その選手にも原因があるわけでしょ。でもね、アイツの場合はそれが当てはまらんのよ。俺の知ってる限り、アイツはあそこまで経験せなあかん理由ってないんだよね。なのに、何でか不運ばっかりが降りかかってくる-」
その通りだった。’96年2月、彼は選手生命にかかわるほどの大怪我をした。原因はデコボコのグラウンドにあった。しかし、そこでトレーニングしていた他の選手は、誰1人としてケガをしなかった。彼だけが、まるで魅入られたかのように呪われた陥没に足を突っ込んでしまった。それも1番衝撃の大きいヘディングからの着地の際に。
いったい何が悪かったというのだろう。プロのサッカー選手である以上、サッカーが好きなのは当然としても、彼は、他の誰にも負けないぐらいサッカーを愛していた。突如として降りかかった不運に対しても、前向きに立ち向かった。ともすれば自暴自棄になってもおかしくないような状況にありながら、彼は避けに逃げることもせず、苦しいリハビリにも手を抜くことなく取り組んだ。仮にケガをしたのが単なる不運によるものでなく、彼にいくばくかの責任があったのだとしても、つまり「ケガに偶然のケガなし」なのだとしても、それを取り返すだけのことはやってきたと私は思う。
高校時代の彼は、話をしてるだけで笑みが浮かんでしまうような、本当に天真爛漫な少年だった。ケガをした後に会った彼は、すっかり大人び、しっかりとした口調で自分の考えを話す青年になっていた。その変化の課程にあったであろう苦悩に思いを馳せたとき、私は思わず涙してしまったのだ。
苦労が人を成長させるというのならば、彼はもう、十分すぎるぐらい成長している。度重なる不運は、後の大いなる栄光を生むための試練だったのだと実感できる日が来て欲しい。
曲がりなりにもサッカーを批評する仕事をしている以上、他の選手にこんなことは言えない。しかし、他の選手とならないほどの地獄をくぐってきた彼にだけには、エールをおくらせてほしい。
頑張れ、小倉隆史。
http://www.fuka.info.waseda.ac.jp/~sado/ogucoment.html
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松波の帝京との決勝戦以来ずっと
ワクワクさせてもらっていたが
怪我で遂にはキャリアを棒にふったね
ピッチに立っているだけで、彼が只者ではないことが分かるほどのオーラを発していた。
サッカー部だった私の憧れは、プロの選手ではなく、ひとつ年下の小倉だった。
アトランタはメンバーも出場決定の過程も素晴らしかっただけに、五輪でのプレーが見たかった。
三十路の三重県民です。
四中工がもうすぐ三羽がらすの偉業に挑みます。
20年前サッカー少年だった私を含め私の友達はもちろん全員オグのファンでした。あの頃を懐かしみ小倉隆史を検索していたらここにたどり着きました。
日本サッカー界の「if」でやっぱり一番はオグが怪我をしていなかったら。
もし怪我をせず、エールディヴィジに居残っていたらどうなっていたかみんなで延々と話し合ったものです。
とってもテンションがあがってしまったものでコメントしてしまいました。
素敵な記事をどうもありがとうございます。
小倉をスパサカで見れなくなってしまって悲しい
(新スパサカは関東ローカル?)
小倉選手、天皇杯決勝での2ゴールの大活躍、しかしNHKのヒーローインタビューを受けていて、グランパスの集合写真に1人だけ写らなかったんですよ。
そうしたら、そのあとにこの大ケガ、当時のアーセン・ベンゲル監督も大ショックだったことを覚えています。
でも、ケガから復帰して、次の天皇杯準決勝、横浜での清水エスパルス戦の途中出場での同点ゴール、鳥肌モノでした。
四日市中央工のころからリアルタイムで見てました。この子は絶対日本代表に入ってくることは素人ながらも確信してました。そのくらい強烈に凄かったのを覚えています。
もしも怪我してなかったら・・・。想像すると楽しいやら悲しいやら。大好きな選手でした。
>>> 名古屋サポさん
どうもコメントありがとうございます。小倉が怪我をしなかったら、日本のサッカーシーンは大きく変わっていたでしょうね。もっと輝いたかもしれません。想像でしかありませんが・・・。彼のようなプレーもハートも大きいストライカーが現れることを期待します。
自分はリアルタイムでは活躍を見れなかった世代ですが、スパサカでの姿を見てこれを読むとちょっとウルッと来てしまいます。小倉が怪我をしていなかったら名古屋はどうなっていたのか、五輪代表は?そう考えるとワクワクすると共に少し悲しくなりますね。
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