■ 空前のサッカーブーム平成が終了していよいよ「令和の時代」がスタートした。新時代に突入したが、この1か月間は「31年間の平成の時代」を振り返る企画がたくさんあった。サッカー界に話を限定させると平成の時代は「飛躍的な発展を見せた時代」と言える。W杯に出場したことがなかった国がアジア杯を4回制覇して、W杯は6回出場。そのうちの3回は決勝T進出を果たしている。3度の決勝T進出というのはアジア勢では最多になる。
昭和の時代に国民的なスポーツと言われた野球や相撲に肩を並べる存在になったのが平成時代だったがターニングポイントになったのは1993年のJリーグ開幕だろう。FW三浦知やMFラモスやMFジーコやMFリトバルスキーやFWアルシンドやGKシジマールなどスター選手が次々に出現。空前のサッカーブームが巻き起こった。Jリーグの試合がゴールデンタイムで生中継されて20%を超える高視聴率を記録した。
オフトJAPANの活躍もサッカーブームを後押しした。前年のアジア杯は自国開催だったが初優勝。翌年に行われるW杯のアジア予選でのW杯初出場の期待が一気に高まった中、1993年の秋にアジア最終予選が行われた。現在のW杯予選はホーム&アウェイ方式で行われるがこのときはセントラル方式だった。1次予選を突破した日本・サウジアラビア・イラン・北朝鮮・韓国・イラクの6カ国がカタールで対戦した。
■ 勝てばW杯初出場が決まる試合初戦はサウジアラビアとスコアレスドロー。勝ち点「1」を獲得した日本は2戦目でイランに1対2で敗れた。6カ国のうち、上位2カ国がW杯の出場権を獲得できるが2試合を終えて0勝1敗1分け。大きく出遅れた。追い込まれた中、3戦目で北朝鮮に3対0で大勝すると、4戦目は宿敵の韓国に1対0で勝利。エースのFW三浦知が決勝ゴールを決めて2連勝。残り1試合となった時点で2勝1敗1分け。首位に浮上した。
当時は引き分けで勝ち点「1」、勝った場合は勝ち点「2」が与えられた。2勝1敗1分けの日本は勝ち点「5」、1勝3分けのサウジアラビアも勝ち点「5」だった。韓国は1勝1敗2分けで勝ち点「4」。最終戦のイラク戦で勝利したら日本は初のW杯出場が決まる大一番になった。最終節でイランと対戦するサウジアラビアも同様。「勝てばW杯初出場が決まる。」という状況。韓国は自力でのW杯出場の可能性は無かった。
先制したのは日本だった。前半5分にMF長谷川健太のシュートがバーに当たって跳ね返ったところをFW三浦知が押し込んであっさりと先制に成功する。予期せぬ展開になったがその後はイラクが主導権を握る展開になった。危ないシーンが続くと後半10分に失点。1対1の同点に追いつかれた。引き分けだと他会場の結果次第になる中、後半24分にMFラモスのスルーパスからFW中山が決めて2対1と勝ち越しに成功する。
■ オフトJAPANがアメリカW杯に出場していたら・・・。FW中山はW杯予選では3ゴール目となった。当初は188センチのFW高木琢がレギュラーで起用されていたが不調。2戦目のイラン戦で途中出場して0対2の状況から反撃のゴールを決めたFW中山は3戦目からスタメンで起用されるようになったがラッキーボーイ的な存在になっていた。らしい飛び出しから勝ち越しゴールを奪って日本はW杯初出場に大きく前進したが後半45分に失点。目前まで迫っていたW杯初出場を逃した。
4年後の1997年11月16日にジョホールバルでイランを破ってW杯初出場を果たすことになるが「ドーハの悲劇」がなくてあのまま2対1で日本が勝利して1994年のアメリカW杯の出場権を確保していたらサッカー界はどうなっていただろうか?と考えたことがある人は少なくないだろう。オフト監督の元で初のW杯に挑んだのは間違いないと思うがFW三浦知、MFラモス、DF井原などが中心になるのも確実である。
結局、アジアからはサウジアラビアと韓国がアメリカW杯に出場しているがどちらも健闘した。韓国は0勝1敗2分け。GLで3位に終わって決勝T進出はならなかったが初戦はスペインと対戦して2対2のドロー。0対2から終盤に2ゴールを奪って2対2の引き分けに持ち込んだ。2戦目のボリビア戦はスコアレスドロー。3戦目のドイツ戦も0対3の状況から2ゴールを返して2対3の惜敗。スペインとドイツを大いに苦しめた。
サウジアラビアは初出場だった。初戦はオランダに1対2で敗れたが2戦目はモロッコに2対1で勝利。初勝利を手にすると3戦目はベルギーに1対0で勝利。2勝1敗の2位で決勝T進出を果たした。ラウンド16では最終的には3位になったスウェーデンに1対3で敗れているがサウジアラビアの快進撃はアメリカW杯のトピックスの1つになった。韓国やサウジアラビアの戦いぶりを考えるとオフトJAPANが健闘した可能性はある。
■ なぜ、時間稼ぎをしなかったのか?ドーハのイラク戦の後半のアディショナルタイムに同点ゴールを許したことは日本サッカー界にとってトラウマになっているが「戦犯の1人」と批判されたのはFW武田になる。後半36分にFW中山に代わって途中出場を果たしたが後半44分に右サイドをドリブルで突破して中央にクロスを入れたが誰にも合わずに相手ボールになった。「なぜ、あそこでFW武田はクロスを上げたのか?」と今でも批判を浴びている。
「ドーハの悲劇 武田 戦犯」と検索すると関連する記事はたくさん出てくるが、FW武田を戦犯とするのはあまり適切ではないように思う。「なぜ、時間稼ぎをしなかったのか?」というのは今の感覚で試合を振り返ったり、当時の映像を見ると誰しもが感じることだと思うが、この当時、少なくとも日本国内では「リードをしている終盤はCKフラッグ付近にボールを運んで時間稼ぎをする。」という意識はあまりなかった。
今では当たり前になっている「キーパーへの(足での)バックパスを手でキャッチすること」が禁止になったのは1992年の話である。ドーハの悲劇の前年の話になる。ルール改正前、時間を稼ごうとするときはキーパーを使って後ろでパスを回すのが安全だった。味方からのパスをキーパーが手でキャッチしたら時間を消費することが出来た。「高い位置でボールをキープして時間を潰す。」という感覚はあまりなかった。
■ カウンターのきっかけになったのは?この試合のフルタイムの映像が下にあるが右サイドでFW武田がボールを持ったときに解説を務めた前田秀樹さんは「ここで行っていいですよ、武田は。」とコメントしている。後半44分の20秒あたりの出来事になるがドーハの悲劇のイラク戦で「時間の使い方」や「時間の潰し方」に失敗して痛い目にあったからこそ得た意識や感覚である。今現在の視点で当時のプレーを非難するのは適切とは言えないだろう。
付け加えると「FW武田のクロスが相手に渡ってそのままカウンターを食らってCKを与えてショートCKから失点した。」と記憶している人は多いと思うが誤りである。その後、イラクにボールが渡ったが後半44分の30秒あたりでMF森保がボール奪取に成功。イラクの攻撃はこの時点でひとまず終わっている。フリーのMFラモスにボールが渡ったがMFラモスの縦パスがカットされてイラクのカウンターが始まった。
つまり、「イラクにカウンターのチャンスを与えたのはMFラモスのパスミスがきっかけだった。」と言える。浮き球のパスは彼が得意にしていたがキックミス。相手へのパスになった。この時はすでに36才。満身創痍の状態の中、日本の10番として奮闘したが決定的なパスミスを犯してしまった。最後の交代カードは「FW中山 out、FW武田 in」ではなくて「MFラモス out、MF北澤 in」でも良かったが結果論だろう。
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