10位 : FW アルシンド (鹿島アントラーズなど)→ 草創期のJリーグを代表する人気プレーヤー。驚異的なスピードと正確なシュートを武器にJリーグ元年に鹿島でゴールを量産。師匠であるMFジーコとのコンビネーションは抜群だった。Jリーグでは通算すると125試合79ゴールを挙げているが大きなインパクトをもたらしたのはユニークなヘアスタイルだった。「アルシンドになっちゃうよ!」、「友達ならあたりまえ」というフレーズを記憶している人は多いだろう。
09位 : GK シジマール (清水エスパルスなど)→ 「クモ男」の愛称で親しまれた草創期のJリーグを代表するキーパー。1993年の途中に清水に入団すると2ndステージの躍進に大きく貢献。「731分間連続無失点」というのは現在もJ1での最長無失点記録になる。長いリーチを生かしたビッグセーブが武器。Jリーグブームを象徴する選手の1人と言える。不人気でクローズアップされることが少なかったキーパーを人気のポジションに押し上げた功績は大きい。
08位 : FW ウェズレイ (名古屋グランパスなど)→ 「ピチブー(猛犬)」の愛称で親しまれたFWウェズレイ。2000年の途中に名古屋に加入すると2001年から3年連続でJ1で20ゴール以上を記録。2003年には得点王に輝いた。J1通算では217試合で124ゴール。通算のゴール数は歴代8位。外国人選手に限定するとFWマルキーニョスに次いで歴代2位となる。名古屋を離れた後は広島や大分でも活躍した。正確で、かつ、パワフルなシュートが相手の脅威になった。
07位 : MF リトバルスキー (ジェフ市原など)→ リティの愛称で親しまれた元・西ドイツ代表のドリブラー。1982年・1986年・1990年と3大会連続でW杯に出場しており、3大会ともに決勝まで進出している。80年代を代表するアタッカーの1人になる。ピークの時期は過ぎていたが華麗なドリブルを武器にJリーグ元年に輝きを放った。1993年のV川崎戦でCKを直接決めたシーンは有名。MFジーコ、FWリネカー、MFリトバルスキーの3人は「御三家」と言われる。
06位 : MF 盧廷潤 (サンフレッチェ広島など)→ 草創期の広島で活躍したアタッカー。韓国人プレーヤー特有のスピードとパワーを生かした突破でたくさんのチャンスを演出した。Kリーグのクラブからドラフト指名されていたが断ってJリーグ行きを選択。韓国国内では衝撃的なニュースだった。「裏切り者」と言われて母国では大きな批判を浴びたが「開拓者」になった。日本サッカー界ならびに韓国サッカー界への貢献度は計り知れないものがある。
05位 : MF ドゥンガ (ジュビロ磐田)→ ブラジル代表として歴代15位タイとなる91試合に出場している名ボランチ。90年代を代表するワールドクラスのボランチだった。強烈なキャプテンシーを持っており、妥協を全く許さない性格なので、試合中に味方選手と口論になるシーンは珍しくなかった。世界のサッカー史に残る名キャプテンになるが右足のキックの精度の高さも武器だった。1997年にはJリーグのMVPを受賞。磐田の黄金期の礎を築いた。
04位 : FW マルキーニョス (横浜Fマリノスなど)→ 外国人選手としては歴代1位となるJ1通算152ゴールを記録しているストライカー。日本人選手を含めても通算のゴール数は歴代5位となる。2001年の東京Vを皮切りに横浜FM→市原→清水→鹿島→仙台→横浜FM→神戸でプレー。震災の影響で短期での退団となった仙台時代を除くとどのチームでもコンスタントにゴールを量産した。2008年にはMVPと得点王とベストイレブンの三冠を達成している。
03位 : MF ビスマルク (ヴェルディ川崎など)→ 1993年の途中にV川崎に加入。V川崎の黄金時代ならびに鹿島の黄金時代に中心として活躍。Jリーグでは283試合で69ゴールを挙げている。1990年のイタリアW杯のブラジル代表になる。20才ながらメンバーに選出されるなど将来を嘱望される選手だったが全盛期をほぼ日本で過ごした。体の使い方が巧みでボールキープ力の高さは圧巻だった。精確なキックと判断力を武器に安定した活躍をつづけた。
02位 : MF ジーコ (鹿島アントラーズ)→ 「サッカーの神様」、「白いペレ」と言われるレジェンド中のレジェンド。ブラジル代表として国際Aマッチは71試合で48ゴールを記録。77ゴールのFWペレ、62ゴールのFWロナウド、60ゴールのFWネイマール、55ゴールのFWロマーリオに次いで歴代5位となる。現役を引退していたが1991年に鹿島の前身である住友金属に加入。「ジーコ・スピリット」を植え付けて鹿島をJリーグのナンバー1クラブに押し上げた。
01位 : FW ストイコビッチ (名古屋グランパス)→ ユーゴスラビアの英雄。国際Aマッチは84試合で15ゴール。1990年のイタリアW杯では主軸としてベスト8進出に大貢献したが内戦の影響でユーゴスラビア代表が国際試合を禁止されるなど時代に翻弄された選手の1人になる。怪我もあって輝きを失っていた中、1994年の夏に名古屋に加入。異次元のテクニックと創造性を武器にJリーグの主役になった。監督としても2010年に名古屋を初優勝に導いた。
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