7. DF 今野泰幸 (ガンバ大阪)
→ 東北高校から地元のクラブであるJFLのソニー仙台へ入団することが内定していたが、当時、札幌の監督をしていた岡田監督に才能を評価されて、岡田監督率いる札幌に入団することになった。3部リーグに相当する当時のJFLからJリーグに引き抜かれたケースはそれほど多くない。そのままソニー仙台に入団していたら、日本代表に入るような選手にはならなかっただろう。ちなみに、当時のソニー仙台の監督は女優の長澤まさみさんの父親である長澤和明監督である。
プロ1年目の2001年からJ1で17試合に出場しており、順調にプロ生活をスタートさせたが、岡田監督が去った2002年はチームは低迷して、J2降格となった。ストッパーのポジションでプレーすることもあったが、正直なところ、特別な選手には見えなかった。技術的に優れているわけでもなくて、身体能力が高いわけでもない。将来、日本代表のレギュラーとして活躍する選手になるとは、全く予想できなかった。平凡な選手にしか見えなかったので、自分の見る目の無さを痛感する。
ただ、大熊ジャパンでの活躍は見事だった。1983年の早生まれということもあって、キャプテンを任されたが、チームの中心として素晴らしい働きを見せた。その後、大熊ジャパンでの活躍が評価されて、アテネ五輪代表チームにも選出された。2004年にFC東京に移籍。2005年にジーコジャパンに選出されたが、2009年に本格的にCBにコンバートされて、新境地を開いた。ちなみに、ボランチからCBにコンバートしたのは、当時・FC東京の監督だった城福監督(現・甲府)である。
8. MF遠藤保仁 (ガンバ大阪)
→ 1996年のアトランタ五輪の本戦で10番を背負ったのは、遠藤三兄弟の次男のMF遠藤彰弘(当時・横浜M)である。中央でプレーすることを好む選手だったが、五輪代表は右サイドが弱点で、レギュラーが固定されていなかったこともあって、「マイアミの奇跡」と呼ばれた初戦のブラジル戦はMF遠藤彰弘が右WBでスタメン起用された。三男のMF遠藤保仁は2000年のシドニー五輪で予備登録メンバーにとどまったのに対して、兄のMF遠藤彰弘は五輪を経験している。
三男のMF遠藤保仁が大きな注目を浴びるようになったのは、1999年のワールドユースのときである。「3-1-4-2」という並びで、MF遠藤をアンカーにおいて、前目にMF小野とMF小笠原が入るという(今、考えると)超・攻撃的な布陣だったが、ゲームメーカーとして、素晴らしい活躍を見せた。チームの中心で、大黒柱のMF稲本(現・川崎F)がコンディション不良で、スタメンで出場できなかったという事情もあるが、代役と言われたMF遠藤がその穴を見事に埋めて、チームは準優勝に輝いた。
当時からパスセンスや判断力が光っていたが、強烈なミドルシュートも大きな武器だった。最近はそれほどミドルシュートを打たなくなって、パワーシュートよりも、コントロールシュートの方が多くなったが、若い頃のMF遠藤は「ミドルシュートに定評のある選手」であり、強烈なシュートで何度もネットを揺らしている。特に印象に残っているのは、ワールドユースの決勝トーナメントの1回戦のポルトガル戦である。苦戦を強いられたが、MF遠藤の右足が日本に先制ゴールをもたらした。
続きをメルマガ(J3+メルマ)で読む。 登録方法(Q&Aなど)
◆ まとめ #784 在りし日のW杯メンバー23名 (今野・遠藤・青山・山口・伊野波・齋藤編) (2014/5/19)
→ ブラジルW杯の日本代表メンバー23人のちょっと昔のことを語ってみようという企画の第2弾です。23人全員を取り上げる予定ですが、今回は、MF遠藤、DF今野、MF青山敏、MF山口蛍、DF伊野波、MF齋藤学の6人をピックアップしました。ボランチのMF遠藤は何と言っても1999年のワールドユースでの活躍が印象的です。
続きをメルマガ(J3+メルマ)で読む。 登録方法(Q&Aなど)